三嶋大社宝物館

三嶋大社収蔵宝物

三嶋大社収蔵宝物・文化財

宝物館では、三嶋大社所蔵の宝物・文化財と、宮司矢田部家に伝来した文化財を収蔵・展示しています。
それらは三嶋大社の歴史および信仰、神社の御祭儀や運営などに関わる大切な資料です。
年に数回展示替えをしながら公開していますので、是非お立ち寄り下さい。
以下、おもな所蔵・収蔵文化財、指定文化財を紹介します。

国指定文化財

梅蒔絵手箱(うめまきえてばこ) 付 内容品とも
指  定 国  宝
内容品30数点を含め、全て国宝に指定されている。
指定日 昭和27年11月22日
時  代 鎌倉時代(13世紀ごろ)
種  類 漆工芸品、蒔絵、櫛笥

解説

北条政子奉納と伝える蒔絵手箱。鎌倉時代の漆工芸品を代表する優品で、入念に漆を塗り重ね、金粉を濃密に蒔きつける沃懸地(いかけじ)の技法により豪華に仕上げられています。蒔絵の基本技法(平蒔絵・研出蒔絵・高蒔絵)の完成を示す作品としても知られます。

本体の手箱の他、鏡・鏡箱・白粉箱・歯黒箱・薫物箱・螺鈿櫛・銀軸紅筆・銀挟など化粧道具がほぼ揃った最古の遺品として、風俗史上も貴重です。蓋表には、梅の老木や几帳や群遊ぶ雁をあらわし、銀の薄板によって「榮・傳・錦・帳・雁・行」の文字が配されています。これは、唐の詩人白居易が、友と共に昇進を遂げた慶びを詠った次の漢詩の一節によった文学的な意匠です。

雁は錦帳を伝え、花は萼を連ねたり、         
         彩は綾袍を動かし、雁は行を趁う、

こうしたデザインは、葦手(あしで)ないしは歌絵とよばれる表現法で、和歌や漢詩の文字の一部が象徴的に配され、それらの一場面が暗示されているのです。模様とともに断片的に配された文字を読み解くことで、意匠に隠された文学的表現が読みとれるようになっているのです。この葦手意匠の作品としても、初期の作例として貴重なものです。

※北条政子:鎌倉幕府を開いた源頼朝の室。頼朝死後は尼将軍と称せられ、政局運営に手腕を発揮した。

近年の展示履歴

期 間    場 所 展示名称
平成7年10・11月 京都国立博物館 蒔絵~漆器と黄金の日本展~
平成10年4月 三嶋大社宝物館 新規開館特別展
平成12年5月 東京国立博物館 文化財保護法50年記念 日本国宝展
平成13年9・10月 三嶋大社宝物館 特別展 みしま ~三嶋暦から三島茶碗へ
平成17年4月 千葉市立美術館 特別展 義経展 ~NHK大河ドラマ展~
令和元年5月~7月 三嶋大社宝物館 御大典奉祝特別展 三嶋大社古神宝集合!

※保存のため、当館以外の施設も含め、数年に1度の展示となります。展示情報をご確認下さい。
   なお、本年度は当館での展示を予定しておりません。
   東京国立博物館に寄託中ですので、そちらで展示を行う場合もあります。

現在「梅蒔絵手箱」の模造復元品を展示中!

復元品とはいえ、当時の技法、材料を含め、全てを再現をすることを目指したもので、国内でも数少ない学術的な復元品として、一見の価値があります。研究者・ 伝統工芸作家・工人ら18名がこの復元行程に参加し、3年半の歳月をかけ完成させたものです。また、展示室内では、この復元過程のメイキングビデオを見ることができます。

現在「梅蒔絵手箱」の模造復元品を展示中!
太刀 銘 宗忠(むねただ)
指  定 重要文化財
指定日 昭和25年8月29日
時  代 鎌倉時代初期
種  類 刀剣/太刀(たち)

解説

明治20年6月5日、明治天皇より御奉納の太刀。明治45年、古社寺保存法により国宝指定を受け、昭和25年、新たに施行された文化財保護法に基づき、重要文化財に指定されています。

作者の宗忠(むねただ)は、備前国福岡一文字派の刀工です。一文字派は備前国福岡(現在の岡山県)において鎌倉初期から隆盛し、茎に「一」の字を刻むことが多いため、その名で呼ばれる刀工の一群です。

この太刀は、流麗な反りに気品が漂う、平安時代末期の風潮を残しています。地鉄は澄んで、「備前もの」特有の淡い映りが立ち、刃文は小丁子文(こちょうじもん)で、初期福岡一文字派の典型的作風を表した優品です。茎(なかご)には細鏨(ほそたがね)で「宗忠」の二字銘が切られています。宗忠の作例のなかで最も優れたものです。

太刀 銘 宗忠(むねただ)
脇指 銘 相模国住秋義(さがみのくにじゅう あきよし)

写真は表の様子。平造りの刀身に浅い樋が穿たれ、小さな宝珠が細工されいてる。

指  定 重要文化財
指定日 昭和25年8月29日
時  代 南北朝時代
種  類 刀剣 脇指
銘「相模國住秋義/伊豆三島大明神奉拝 佐藤松千代貞成」

解説

銘によって、佐藤貞成という人物から三嶋大社に奉納されたことがわかります。表が平造り、裏が菖蒲造りの珍しい形状。地肌は板目が流れ、刃文は表がのたれに丁字混じり、裏は皆焼風に煮え崩れ、帽子は深く焼き下げています。相模國の刀工秋義は、現存する作刀例が少なく、貴重な一品です。

紙本墨書般若心経源頼家筆 建仁三年八月十日

源頼家筆写の般若心経

指  定 重要文化財
指定日 平成6年6月28日
時  代 鎌倉時代 建仁3年(1203)
種  類 紙本墨書

解説

現存する源頼家唯一の自筆書とされています。建仁2年(1202)7月、父頼朝の死後3年目にして鎌倉幕府第2代将軍となりますが、実権は北條時政、母政子らの手にありました。政権内の軋轢(あつれき)に苦悩する青年将軍は、翌3年7月20日、にわかに発病します。この般若心経は病悩のなかで筆写され、8月10日に三嶋社へと奉納されました。

~その後、この般若心経は数奇な運命をたどります。わかっているだけも2度社外に持ち出されながら、神意に導かれるように再奉納によって戻ってくるのです。いつの頃からか流出したこの経文を手に入れた亀井重矩は、その由緒を知って、享保8年(1723)、三嶋大社へと奉納します。しかし、明治時代となり、この経文を管理した大社の別当寺、愛染院が廃寺となった時、蓮華寺に移管されました。そして明治29年、蓮花寺から改めて奉納がなされ、現在に至っています~

※源頼家(みなもとのよりいえ):鎌倉幕府第2代将軍。1182年生まれ、1204年没。父頼朝が死去した時、彼はまだ18歳でした。23歳の若さで生涯を閉じた彼は、伊豆修善寺に葬られています。

経文末尾

鎌倉幕府の政争に翻弄される若き将軍、源頼家。病悩の中にあった彼は、三嶋社にその平癒を願い、この経文を奉納した。

御祭神
三嶋大社矢田部家文書(やたべけ もんじょ)

展示中の「三嶋大社矢田部家文書」

写真は江戸時代後期に、独立した古文書を巻子状にまとめたもの。
足利尊氏、足利直義の古文書部分(南北朝時代)がみえている。

指  定 重要文化財
指定日 平成6年6月28日
時  代 平安時代末~江戸時代末(一部明治初年を含む)
種  類 古文書など592点(古絵図・日記を含む)

解説

三嶋大社宝物館では、三嶋大社所蔵の古文書、宮司矢田部家所蔵の古文書(寄託文書)を架蔵しています。この文書群のうち、近世以前の古文書、三嶋大社所蔵分155点、宮司矢田部家所蔵分437点、総計592点が重要文化財に指定されています。三嶋大社と矢田部家が密接不可分であることから、法人と個人所蔵の文書が一括指定されたもので、こうした例は、この文書群についてが唯一の事例です。

所蔵文書個々を指す場合、それぞれ、「三嶋大社所蔵文書」、「矢田部家所蔵文書」といった呼び方をしますが、重要文化財指定名を指す場合は、「三嶋大社矢田部家文書」と呼びます。

中世文書では、源頼朝・北条時政ら鎌倉期の武将、足利尊氏・足利直義ら南北朝期の武将らの寄進文書が目を引きます。近世文書には、神社の祭祀・経営に関わる文書が多く、江戸時代の三嶋大社および三島地域の歴史をみる上で、重要な資料となっています。

重文「三嶋大社矢田部家文書」抜粋 (以下、重文文書の画像紹介、解説などを増やしていきます)

平安・鎌倉時代の古文書(a)
南北朝時代の古文書(b)
室町時代の古文書(c)
戦国時代の古文書(d)
江戸時代の古文書(e)
古絵図類(f)
日記類(g)

三嶋大社の建造物の中でも、平成12年に重要文化財指定を受けた本殿(ほんでん)・幣殿(へいでん)・拝殿(はいでん)。
他に、舞殿(ぶでん)・神門(しんもん)等に、欅(けやき)材を用いた装飾用の優れた彫刻が施されている。

本殿
指  定 重要文化財 周囲の彫刻も含む
指定日 平成12年5月25日
時  代 江戸時代末 慶応2年落成(1866)
種  類 本殿を流造りとする複合社殿。奥から本殿・幣殿・拝殿。
総欅素木造り(そうけやきしらきづくり)

解説

嘉永7年(1854)11月4日の東海地震で罹災し、その後再建された社殿。時の神主矢田部盛治の指揮のもと、全国にて再建のための勧進を行い、慶応2年(1866)9月9日、本殿・幣殿・拝殿の落成をみました。境内の主要建造物はこの時全て再建され、明治元年(1868)にかけて随時落成しました。
社殿彫刻は、当代の名工小沢半兵衛・小沢希道親子とその門弟のほか、後藤芳冶良らによるもの。社殿彫刻としては高い完成度と美術的価値をもちます。

※矢田部盛治(やたべもりはる):江戸時代末から明治時代はじめの三嶋大社神主(宮司)。社殿再興の他、大場川の治水工事、祇園原水路の開削など三島地域の開発に尽力した人物。境内には彫刻家澤田晴廣制作による盛治の銅像がある。

※御殿(ごてん):三嶋大社では、本殿・幣殿・拝殿を総じて御殿と称しています。

本殿部分 西側から望む

本殿屋根の高さ16メートルに及ぶのは、東海地域の古建築社殿としては最大級。

本殿部分

御殿の彫刻

これらの彫刻は、約130年前、現在の社殿造営に当たり、時の神主矢田部式部盛治(やたべしきぶもりはる)が、安政4年(1857)10月16日彫工 後藤芳治良を、安政5年(1858)2月14日彫工小沢半兵衛・同希道を雇い入れ、弟子達と共に従事させた事が、盛治日記に記されている。

彫刻配置図
本殿の彫刻「天照大御神天岩屋戸より出で給ふ図」

「天照大御神(あまてらすおおみかみ)天岩屋戸(あめのいわやど)より出で給ふ図」

(拝殿向拝蟇股の正面)

これは神話に基づく彫刻である。天岩屋戸にお隠れになった天照大御神がお出ましになり、暗く災いの多かった世の中が、元の明るい世の中戻った場面である。詳い神話は下に「古事記」を一部要約して抜粋しました。ご参照ください。

国の平和、世界の平和をあらわす彫刻であり、万民の願いを表わしている。神社は本来 天下泰平 五穀豊穣を祈る聖なる処であることを、端的に示すものといえる。

因にこの彫刻の裏側は「高砂(たかさご)の図」とよばれる、媼(おうな)と翁(おきな)が箒(ほうき)と熊手(くまで)を持つ図で、家庭の平和、人生の平和を表している。また、健康長寿の理想像でもある。

天照大御神天岩屋戸より出で給ふ(古事記より抜粋、一部要約)

本殿の彫刻「吉備真備 囲碁の図」

「吉備真備(きびのまきび)囲碁の図」

(拝殿向拝蟇股の右側)

吉備真備は遣唐使として唐に渡り、多くの知識や書物を日本に伝えたことで有名だが、帰朝後朝廷に献じた多くの書物の中でも、当大社と特に関わりの深い物は、暦学・こよみに関する物である。
この彫刻は唐の名人と囲碁を打って勝ったときの様子を彫った物であり、この勝負に勝ったことよって、暦学の書を日本に持ち帰ることを許されたと伝えられる。

吉備真備
奈良時代の学者・廷臣で、本姓は下道真吉備(しもつみちまきび)という(693~775)。716年遣唐留学生として入唐、735年帰国。孝謙天皇の信任を受け、遣唐副史として再び渡唐、その文明を伝え、大学釈たいの礼を定め、律令を算定。従二位右大臣に累進。世に吉備大臣という。

本殿の彫刻「源三位頼政 ヌエ退治の図」

「源三位頼政ヌエ退治の図」

(拝殿向拝蟇股の左側)

この彫刻は、御所の屋根に現れて、帝(みかど)を悩ますヌエ(鵺)を源三位頼政が退治した図である。ヌエは、鳴き声は虎鶫(とらつぐみ)に似て、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎に似ているという。

源頼政(1104~1180)
平安末期の武将・歌人。白川法皇に仕えて兵庫頭。保元・平治の乱に功をたてた。剃髪をして世に源三位入道と称し、後に以仁王を奉じて平氏追討を図り、事破れて宇治平等院で自刃。歌集「源三位頼政郷集」がある。

「富貴長春の図」

「富貴長春の図」

(拝殿向拝蟇股右側の裏面)

鶏(ニワトリ)、牡丹(ぼたん)と薔薇(ばら)が配されています。
中でも鶏は夜明けを告げる鳥で、太陽の出現を知らせる鳥として神聖視されており、神社では遷宮(せんぐう)の時、鶏鳴(けいめい:鶏の鳴き声)により御扉が開かれ(開扉)、神が出現しお遷りになります。表中央の蟇股の彫刻にある、天照大神が天岩戸よりお出ましになる前にも鶏を鳴かせた、と古事記にあります。

この彫刻は表中央の蟇股の彫刻と対応していると言えるでしょう。
なお、古来、牡丹は富貴、薔薇は長春の異名があり、この図は、富貴長春の図と呼ばれています。

「高砂(たかさご)の図」

「高砂(たかさご)の図」

(拝殿向拝蟇股正面の裏側)

媼(おうな)と翁(おきな)が箒(ほうき)と熊手(くまで)を持つ図で、家庭の平和、人生の平和を表します。健康長寿の理想像でもあります。

「練鼓鳥(れんことり)の図」

(拝殿向拝蟇股左側の裏面)

昔中国では人民が天子をいさめるために、宮廷の門外に太鼓を置き、意見を申したい者が役人に知らせるためにこれを打たせた、と言い、このは太鼓を練鼓と呼ばれます。

夜明けを告げる鶏鳴(けいめい)を警世(けいせい:世の人に警告をすること)になぞらえて、この彫刻は練鼓鳥と呼ばれています。

本殿の彫刻「拝殿正面の彫刻」

「大虹梁」の彫刻(正面蟇股のすぐ下の部分)

巨大な用材を用いた虹梁に、松竹梅と鶴の彫刻が籠彫りにされています。
虹梁と一体になった見事な彫刻。

「二重虹梁」の彫刻(正面蟇股のすぐ上の部分)

桜に雉(きじ)をあしらっています。なお、その上の妻飾の端形は五雲、木鼻は正面の四つが獅子、両脇の二つは象の木鼻となっています。

「黄石公と張良の図」(正面屋根のすぐ下「懸魚」の彫刻)

張良は、中国 前漢の高祖 劉邦の功臣として有名ですが、この図は前漢が興る以前、張良が河南省武県で秦の始皇帝を狙撃して失敗し、隠れていたときの、黄石公から太公望の兵書を授けられている図です。

本殿の手挟には、「水呑虎(みずのみとら)の図」、「楊貴妃(ようきひ)の図」、「子持虎の図」、「騎龍生(きりゅうしょう)の図」、「謝自然(しゃしぜん)の図」、「麒麟(きりん)の図」、「弄玉(ろうぎょく)の図」、「簫史(しょうし)の図」が施されています。
中国の故事による題材が多く用いられています。

「水呑虎(みずのみとら)の図」

「水呑虎(みずのみとら)の図」

虎は森林や竹林の水辺に住む猛獣で、昔から多くの題材にされ、親しまれている動物です。

「楊貴妃(ようきひ)の図」

「楊貴妃(ようきひ)の図」

楊貴妃は、唐の玄宗皇帝の皇后で絶世の美人であったと伝えられる。この図は貴妃が楽器を奏でる図です。

皇帝と貴妃のことは唐の詩人白楽天の長恨歌で有名であるが、皇帝は貴妃におぼれて政治を顧みなくなり、国は乱れて戦乱が起こり、貴妃は蜀へ向かう途中兵士に殺害されその一生を閉じています。

「子持虎の図」

「子持虎の図」

子供を大事にしない動物はありませんが、昔から虎は特に子を大事にするといわれています。自然の中での子育ては容易ではありません。

「騎龍生(きりゅうしょう)の図」

「騎龍生(きりゅうしょう)の図」

昔から龍虎と並んで絵画や彫刻の題材に多く用いられており、当大社の彫刻の中にも多く見られます。

龍は水神としてあがめられ、雲を呼んで雨を降らすと伝えられ、農業者にとってはもっとも大切に考えられて、信仰されてきました。

「謝自然(しゃしぜん)の図」

「謝自然(しゃしぜん)の図」

謝自然は唐代華陽の人、幼いときから道教を学び、書や文に優れ、長じては貞女の誉れ高い人と伝えられます。

「麒麟(きりん)の図

「麒麟(きりん)の図」

想像上の動物で、ビールの商標でおなじみでしょうか。頭上に角があり、胴は鹿に似て、蹄は馬に、尾は牛に似て、体毛は黄色で特に背中の毛は、青・碧黄・赤・紫である。

「弄玉(ろうぎょく)の図」

「弄玉(ろうぎょく)の図」

弄玉は秦のほく公の娘、で簫史(後述)と結婚して彼に笛を習い、大変上達して鳳凰(ほうおう)を呼び寄せたと伝えられている。後に弄玉は呼び寄せた鳳に乗って昇天したといわれます。

簫史(しょうし)の図

「簫史(しょうし)の図」

竹製の笛、簫(しょう)の名人で、孔雀や鶴を呼び寄せたと伝える。弄玉と結婚して笛を教え、やがて鳳凰を呼び寄せることが出来るようになり、弄玉は鳳に乗り、簫は龍に乗って昇天した。

本殿の彫刻「山幸彦の図(其之一)」

「塩推神が山幸彦を無間勝間之小舟に乗せて海津見神の宮に案内するところの図」

(拝殿左床の脇障子)

ある時、山幸彦(やまさちひこ)(火遠理命:ほおりのみこと)は、兄 海幸彦(うみさちひこ)(火照命:ほてりのみこと)の鉤(つりばり)を借りて魚釣りをしたところ、魚は釣れずに借りた鉤を失ってしまいました。

自分の剣で沢山の鉤を作って兄に差し出したものの、もとの鉤を返せと言われて許されず、山幸彦は途方に暮れてしまいました。困り果てて海辺で泣いていると塩推神(しおつちのかみ)が現れ、尋ねられるまま山幸彦は一部始終を話すのでした。

すると塩推神は無間勝間之小舟(まなつかつまのおぶね)を作り、一計を含めて山幸彦を船に乗せ、綿津見神(わたつみのかみ:海神)の宮に送りだしました。

海神の宮に着いた山幸彦は、塩推神に教えられた通り、御門の傍らの井戸の上にある、湯津香木(ゆつかつらき)の上に登っていると、そこへ海神の女(むすめ)豊玉毘売(とよたまひめ)のお供の者が水を酌みにやってきました。供が水を酌もうとしたとき、水面に映っている樹上の山幸彦を発見したのです。

山幸彦は水を求め、お供の者の報告により豊玉毘売が命に出会い、その報は、その父 海神に知らされました。

海神は山幸彦を御殿に案内して大変なもてなしをし、命と豊玉毘売を結婚させたのでした。

本殿の彫刻「山幸彦の図(其之二)」

「山幸彦が綿津見神の宮から帰るところの図」

(拝殿右床の脇障子)

失った兄・海幸彦(うみさちひこ)の鉤(つりばり)を求め、塩推神(しおつちのかみ)の知恵を借りて、海神の宮まで来たはずの山幸彦(やまさちひこ:火遠理命)であったが、海神に認められ、その娘 豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)と結婚し、幸せな時を過ごしていました。

3年がたったある夜、兄の鉤を失ったことを思い出した命は大変歎き、その様子を心配した豊玉毘売命が父神である海神(綿津見神)に相談したのでした。

海神はその理由を命に尋ね、鉤を失って探していることを知ると、すぐに魚という魚を悉く集めて鉤を取った魚があるかを調べだしました。すると、鉤があって物を食べられないと言う赤鯛が居ることが判りました。

喉を調べ、鉤を取りだして見てみると、ありました。山幸彦が3年前に無くした鉤です。

山幸彦の人となりの良さを知っている海神は、その鉤をよく洗って命に奉り、また塩乾珠(しおひるたま)、塩盈珠(しおみつるたま)を授け、和邇魚(わに)どもを集めて一日で命を送り還したのでした。

国に戻った山幸彦は塩乾珠、塩盈珠を用いてよくその国を治めた伝えられます。

本殿の彫刻「神功皇后(じんぐうこうごう)の図」

「神功皇后(じんぐうこうごう/息長帯比売命:おきながたらしひめのみこと)図」

(本殿左床の脇障子)

神功皇后の御子であり、後の応神天皇(おうじんてんのう)である品陀和気命(ほむだわきのみこと)を、建内宿禰大臣(たけのうちすくねおほおみ)が養育しており、その後で神功皇后が見守っている構図になっています。

タイトルにあります神功皇后とは、仲衰天皇(ちゅうあいてんのう/帯中日子天皇:たらしなかつひこのすめらみこと)の皇后であり、新羅(しらぎ)の国、百済(くだら)の国に渡り、新羅国を御馬甘(みまかい)、百済国を渡屯家(わたのみやち)と定めて還られたことで知られています。

王子(応神天皇)は神功皇后がお戻りのあと、筑紫の国(つくしのくに)でお生みになったと伝えられています。

本殿の彫刻「養老の滝の図」

「養老の滝の図」

(本殿右床の脇障子)

この彫刻は親孝行の図で、「養老の滝」の伝説をモチーフにしています。

「養老の滝」の伝説

霊亀三年(西暦717年)元正天皇の御代に、美濃国(現在の岐阜県南部)に薪(たきぎ)を取って生活している貧しい男がおりました。一生懸命働いていても男の生活は貧しいものでしたが、苦しい中でも酒好きな老父に酒だけは毎日買い与えておりました。

ある時、薪を背負って帰る途中、滝の水を瓢(ひさご)に酌むと、なんとそれは酒でした。男は毎日この滝の水を酌んでは老父に与えるようになりました。

その話を伝え聞いた天皇は、この地に行幸し男の孝養を賞し美濃守に任じ、年号を養老と改めたと伝えられています。

【本殿上部 妻組物の彫刻】

支輪

支輪

少しづつ姿を変えた雲に鶴である。

蟇股

支輪

様々な草花や植物に鶏の図である。

頭貫

頭貫

波に鶴である。

虹梁

波に千鳥である。

欄間

欄間

総て鳳凰である。

木鼻

木鼻

総て獅子で北西角の獅子だけは縢毬(かがりまり)の中にもう一つ玉を彫込んだ籠彫の優れた彫刻である。

【本殿底部 浜縁束の彫刻】

蟇股

蟇股01

波に飛龍。

蟇股02

ただし、北西角の1面だけは波に鯉である。

虹梁

波に千鳥である。(蟇股写真 下部参照)

木鼻

木鼻

波間に乱舞する千鳥。見事な籠彫である。

三嶋大社の金木犀
指  定 天然記念物
指定日 昭和9年5月1日
樹高 10メートル以上
目通り周囲 約4メートル
枝條 約250平方メートル

昭和9年5月1日、文部省告示第181号により、文部大臣から国の天然記念物の指定を受けました。
学名は薄黄木犀(うすきもくせい)。薄い黄色の花をつけ、甘い芳香が特徴です。
樹齢は1200年を越えると推定される巨木で、現在もっとも古く、かつ大きなモクセイとして知られています。
円形に広がり、地面に届くほど垂れている枝先がこの木の生きた歳月の長さを物語っています。

薄黄色で可憐な花は甘い芳香を発し、それは神社付近はもちろん遠方までにおよび、時には2里(約8キロ)先まで届いたと伝えられています。

9月上旬より中旬にかけ、黄金色の花を全枝につけ、再び9月下旬より10月上旬にかけて満開になります。

静岡県指定文化財

三嶋本 日本書紀 並びに具書

三嶋本日本書紀 上巻

指  定 静岡県指定有形文化財(国指定重要美術品)
指定日 昭和55年11月28日(重要美術品指定:昭和24年4月13日)
時  代 室町時代 応永35年(1428、4月27日に正長と改元)
種  類 紙本墨書・巻子装/数量:日本書紀3巻、具書3巻

解説

『三嶋本日本書紀』と称される『日本書紀』の写本。『日本書紀』は全30巻からなりますが、三嶋本『日本書紀』は巻1(神代上)から巻3(神武紀)までを 書写し、これに『中臣祓』などの具書3巻を添えて奉納されたものです。願主であり施主である正本が奉納したものか。書写した者は、良海・快尊・重尊と助筆 の真尊の4名で、応永35年(正長元年、西暦1428年)に三嶋大社に参籠し、同年6月に『日本書紀』3巻分の、同9月には具書の書写を終えています。

良海は真言宗の僧侶で、河内国誉田八幡宮や日光輪王寺などに施入された『日本書紀』の書写も行っています。快尊は高野山学僧で、諸国で修行していたことが知られます。

お田打ち神事

1月7日午後1時より、御殿にて田祭(たまつり)が斎行され、引き続き舞殿では、静岡県無形民俗文化財に指定されている「お田打ち神事」が行われます。

「お田打ち神事」の起源は古く、平安時代ともされ、鎌倉時代になると盛んに行われたと考えられています。その後、室町時代には狂言形式の芸能として調えられたと考えられます。

白いお面を付けた舅(しゅうと)の穂長(ほなが)がその年の恵方(えほう)から登場し、黒いお面を付けた婿の福太郎(ふくたろう)とともに、苗代所の選定から種まき、鳥追いまでの稲作行事を狂言風に演じます。「お田打ち神事」のように、年頭に当たって、その年の五穀豊穣、天下泰平を祈る神事のことを予祝神事(よしゅくしんじ)といいます。

当日は、神事に続いて、紅白の小餅や種もみがまかれ、これらと共に「福」を授かろうと、大勢の参拝者でにぎわいます。このお田打ちに登場する「福太郎」は、神事における役割と、その名前から、福を授けるものとして、「福の種蒔く福太郎」と呼ばれ、親しまれています。

今日、そのお顔は おもち にもなって、めしあがる多くの人々に福を授けています。

福太郎の詳細はこちらをご覧ください

三十六歌仙縫取絵額(さんじゅうろっかせん ぬいとりえがく)

三十六歌仙縫取絵額 左1番~左3番 (柿本人麻呂・凡河内躬恒・大伴家持)

指  定 県指定文化財(工芸)
指定日 平成27年11月9日指定
時  代 安土桃山~江戸時代初期の間
種  類 絹本・装飾刺繍・和歌墨書・着色

解説

伝養珠院(徳川家康側室お万の方)奉納の三十六歌仙絵額。装束などが刺繍によって表される珍しい絵額。

徳川家康側室のお万の方は天正8年(1580)生まれ、承応2年(1653)没。父は北條氏・里見氏に仕えた正木邦時(頼忠)と伝え、蔭山氏広の養女となって家康に仕えました。養父の苗字をとり、蔭山殿と呼ばれました。紀州徳川家の祖となる頼宣、水戸徳川家の祖となる頼房を生み、側室として篤く遇されました。

奉納品は、装束などの模様が丁寧に刺繍された珍しい品。頼宣・頼房両者の健康と栄達を願い奉納されたものです。三十六歌仙全てが残っています。

三島市指定文化財

御殿の手前、舞殿には、「二十四孝」という中国に伝わる親孝行のお話を題材にした彫刻が巡らされています。
この二十四孝というのは、今からおよそ700年ほど前、中国の元の時代に郭居業(かくきょぎょう)がまとめた物語です。

「欄間」と、その上の「小壁」に1話ずつ。1面に3組6話を配し、四方で24話が彫られています。

東北より、東面、南面(正面)、西面、北面の順に時計回りでお話をいたします。

舞殿
舞殿の彫刻「東面 右の彫刻」

上段「桑の実を摘んで母にあげる」
下段「官職を捨てて母を訪ねる」

「桑の実を摘んで母にあげる」

中国漢の時代、世の中が大変乱れ、盗賊が横行していた頃、汝南に蔡順(さいじゅん)と言う人が住んでいました。彼は小さいときに父を亡くし、母親に孝行を尽くしていました。

ある日、郊外に桑の実を採りに出かけ、採った実を赤い実と黒い実に分け、2つの篭に分けて入れていると、そこに盗賊が現れました。

盗賊は彼の行動を不思議に思い、なぜ2つに分けるのか問いただしました。すると彼は、「熟して黒く甘い方の実は母にあげる分で、赤い酸っぱいのは自分が食べるんです。」と答えました。

それを聞いた盗賊は順の孝心に感心して、物を盗るどころか、逆に米や肉を与えて立ち去ったといわれます。

~彫刻(上段)は、蔡順が盗賊の問いに答えているところです。~

「官職を捨てて母を訪ねる」

宋の時代 楊州に、朱寿昌(しゅじゅしょう)と言う官吏がおりました。彼の父は擁州の長官でしたが、彼がまだ幼いとき、母と生き別れさせられました。

1人前になってからはいつも母のことを気にかけ、どこにいっても母を捜しましたが見つけだせず、探し初めて50年を過ぎた頃、ついにその職を辞して母探しの旅に出ました。

尋ね歩いて疲れ果て、道ばたに倒れた彼を見て、通りかかりの旅人が介抱してくれました。その旅人に問われるまま、旅の理由を語りだすと、突然彼を囲んでいた群衆の中から1人の白髪の老婆が駆け寄りました。その人こそ、長年探し求めていた母親でした。

こうしてついに、彼は母と再会を果たすことが出来ました。

~彫刻(下段)は、寿昌が母を訪ね歩いているところです。~

舞殿の彫刻「東面 中央の彫刻」

上段「知事を辞して父の看病に専心する」
下段「母への孝養を怠らず」

「知事を辞して父の看病に専心する」

中国 南斉の時代のお話です。大変な努力により官につき、県知事まで出世した ゆぎんろう と言う人物がおりました。

彼は県知事に選ばれたものの病気の父親が気に掛かり、10日もたたないうちに辞職を決意、父の看病のために帰国したのでした。

父の元に戻った彼は、医師に病状や治療法を詳しく尋ねました。すると医師は、「最も良い方法は病人の便をなめてみることで、その味で容態を視、治療の方法を選ぶ」のだと教え、それからは父の便を検査することを第一としたのでした。

これにあわせ、毎日父の病気平癒を祈り続けたといわれます。

~彫刻(上段)は、病気平癒を祈っているところです。~

「母への孝養を怠らず」

宋の時代、四学士の1人と称され、文学に秀でた黄庭堅(おうていけん)と言う人がおりました。彼は哲宋・元宋の王に仕えて国史を完成させ、詩人としては「山谷」と号して活躍しました。また、州の長官に任ぜられ、後々までその名を残す良政を行った人物です。

彼が高官に出世し、使用人を使うようになってからも親孝行を怠らず、特に、老婆の用いる便器の始末は全て自分でやるといった具合で、一度もそれを使用人に任せることはありませんでした。

こんな人柄だったこそ、名を残し、後世に残る良政をしいたのだと伝えられます。

舞殿の彫刻「東面 左の彫刻」

上段「群に紛れて鹿の乳を採る」
下段「枕を扇ぎ布団を温める」

「群に紛れて鹿の乳を採る」

中国 周の時代、炎(たん)と言う人のお話です。

共に暮らしていた彼の年老いた父母が、患っていた眼に鹿の乳が特に良いと聞き、欲しがっているのを知りました。

すると彼は鹿の皮を手に入れ、それを被って野生の鹿の中に紛れ込み、乳を採っては両親にあげるようになりました。

そんなある日、いつものように鹿の群の中にいたとき、狩人に鹿と思われて弓で射られそうになりました。あわてて事情を説明し、射殺から免れることが出来たのでした。狩人は彼の孝行心に深く感銘したということです。

~彫刻(上段)は、鹿の皮を被った彼が狩人に事情を説明している図です。~

「枕を扇ぎ布団を温める」

黄香(おうこう)という、漢の時代、江夏の人のお話です。

彼は9才の時に母を亡くしましたが、日々の御霊祭を欠かさず、また、父親への孝行にも励む、孝行息子として知られていました。

彼の家は豊かではありませんでしたので、夏になれば、寝ている父親の枕元で扇であおいで涼しくし、冬になれば父の冷たい布団に自分が入って温めて置くほどであったといわれます。

~彫刻(下段)は、父親が布団にはいる前に扇であおぎ涼しくしている図です。~

舞殿の彫刻「正面 右の彫刻」

上段「日々のつとめを怠ることなく 母の看病に誠を尽くす」
下段「美衣を着て親を喜ばす」をお話しします。

「日々のつとめを怠ることなく 母の看病に誠を尽くす」

漢の高祖劉邦の第3子、西漢の孝文帝は、日々政治に意を尽くし、良く国を治め、また数々の実績を挙げたといわれます。また、母薄太后への孝養も尽くしました。彼女が3年の長い間病床にあったときは、日々の政治の後、「衣服の帯も解かず、まばたきもしない」で看病に当たったと伝えられます。母の薬を煎じるときは、人任せにしないで、必ず自分で舐めて加減を確かめ、母に勧め、看病をするのでした。

「美衣を着て親を喜ばす」

中国は周の時代、老菜子(ろうらいし)という人がおりました。幼い頃から大変な孝行者で、道家の奥義を究め15編を書しています。山の麓で農業を営んでいるのを、その賢さを聞いた楚王が招聘したほどです。ただ、招聘には応じず、政治とは距離を置いた生活を続けたといわれます。

彫刻(下段)は、彼が70才になった頃、美しい着物を着て子供の真似をして、老齢の両親に意識させまいとしている図です。

舞殿の彫刻「正面 中央の彫刻」

上段「親の木像を拝む」
下段「地中より黄金が湧く」

「親の木像を拝む」

中国漢の時代、丁蘭(ていらん)という人のお話です。幼いときに両親を亡くし、親孝行もできなかったと悲しむ彼は、両親の木像を彫りました。それを朝夕に拝み、祭を絶やすことがなかったと伝えられます。

~この図は、両親の木像を拝んでいるところです。~

「地中より黄金が湧く」

中国後漢の時代、郭巨(かくきょ)という人がおりました。老母と夫婦の3人、貧乏ではありましたがお互いを思いやり、何とか暮らしていました。母が年を取り、病気がちになった頃、子供が産まれ、生活はますます苦しくなっていきました。それを察した老母が、自分の食事を減らして孫に与える為、母親の病気は日に日に悪くなってゆきますが、医者に診てもらおうにもお金がありません。巨夫妻はそれを悩み、ついに決断しました。

貧乏のために親孝行をすることもできない。子供はまた産めるけれど、母親は又と得られないものだから、身を切られる思いでも、この子を土に埋めて母に尽くすことにしよう。と。

二人で泣く泣く子供を埋める穴を掘り出すと、不思議、その地中から黄金が出てきました。夫婦はこれは天からの授かり物だと喜びました。このおかげで、子供は殺さなくてすみ、母親も医師に見せることができて幸せに暮らすことが出来たといわれます。

~この図は、巨が出てきた黄金を支えているところです。~

舞殿の彫刻「正面 左の彫刻」

上段「継母(はは)に尽くす」
下段「みかんを懐にする」です。

「継母(はは)に尽くす」

孔子の弟子、閔子騫(びんしけん)は、孔子も彼を称えて「孝なるかな閔子騫」というほどの人物です。

周朝の時代のお話です。彼は幼くして母を亡くし、父の後妻と二人の異母弟とともに暮らしていましたが、継母は自分の子だけかわいがって騫にはつらく当たっていました。このことを気づいた父は、彼のために継母を離縁しようとしました。しかし彼は、自分が我慢すれば二人の異母弟は実母の手で育てられると、逆に父を説得して離縁を思いとどまらせ、いっそう継母と義弟に尽くしました。

その優しい心根が次第に継母にも通じ、暖かい幸せな家庭になったと伝えられます。

「みかんを懐にする」

後漢の頃、陸績(りくせき)別名を公紀という人のお話です。

彼が6才の時、九江というところの袁衡(えんこう)さんの家におじゃましたときの話です。おいしい沢山の「みかん」をごちそうになった彼は、お暇する際、懐の中へこっそりとみかんを二個隠しました。帰りの挨拶をしているとき、折悪しく、懐からみかんが転げ落ちてしまいました。袁衡は不審に思いそのわけを尋ねると、「あまりにもおいしいので病気の母にあげて喜んでもらおうと思って」と答えました。六才の幼児の母を思う心に袁衡はいたく感心したのでした。

因みに、陸績は大きくなってから立派な天文家になっています。

~この図は卓の上の みかんを挟んで二人が問答をしているところです。~

舞殿の彫刻「西面 右の彫刻」

上段「真冬に筍(タケノコ)が生える」
下段「清水が湧く」です。

「真冬に筍が生える」

三国時代の人、孟宗(もうそう) 俗名:恭武 という人物のお話です。

彼は幼いときに父に死に別れ年老いた病気がちの母と暮らしていましたが、母の病気は次第に重くなっていきました。好物の「筍(タケノコ)のなます」をもう一度食べてから死にたいと望んでいるのを知り、彼は真冬の竹藪の中へタケノコを探しに入っていきました。筍は春先に生えるもので、いくら探しても雪混じりの風が吹く冬に生えているわけがありません。困り果てた彼は竹に抱きつき、大声を上げて筍がほしいと泣きました。すると、彼の孝心を感じたのでしょうか、目の前に筍が幾本も生えてきました。

喜んだ彼はすぐに持ち帰り、母親に与えました。すると不思議、母の病気も奇跡的に快方に向かったと伝えられます。

「モウソウ竹」の名の由来です。

「清水が湧く」

漢の時代、姜詩(きょうし)という人のお話です。

彼の母親は大河の清水と、鮮魚の”なます”が好物でしたので、夫婦2人で遠い大河まで清水をくみに行き、また、魚を捕ってはなますを作って母親に食べさせたのでした。多目に作れば近所の老人にも分けていました。

こうして何年か過ぎた後、突然自宅のそばに大河同様の澄んだ水が湧きだして泉が出来ていました。泉の中には鯉が踊りはねています。

こうして、夫婦は家のすぐそばで清水をくみ、魚を捕って母親に尽くすことが出来たということです。

~この図は、姜詩が清水を酌んでいるところです。~

舞殿の彫刻「西面 中央の彫刻」

上段「指をかんで心を痛める」
下段「鯉が躍り出る」

「指をかんで心を痛める」

中国は周の時代、孔子の弟子の曹子(そうし、曹参ともいう)という人のお話です。

幼いときに父を失い、母と二人で暮らしていた彼は、とても道徳心の強い人で、母親を大切にし、その孝養ぶりは世の人の称賛の的でした。

彼は山に登って薪を捕り、これを売って生計を立てていましたが、ある日、いつものように薪を取りに行っていると、なぜか胸騒ぎがして心が痛みます。これはきっと家に何事か起こったに違いないと感じて、薪取りを中断し急ぎ家に向かいました。家に着き、彼は胸騒ぎの訳を知り、うなずいたのでした。

なぜなら、彼の母が一人で留守番をしているときに急な来客があり、どう対応して良いか困った母が、いろいろ考えた末、自分の指を歯でかみ、このため、彼は胸騒ぎがしたのです。

お互いを思う深い親子の絆の物語です。

~この図は、来客を前に母が指をかんでいるところです。~

「鯉が躍り出る」

晋の時代、王祥(おうしょう)のお話です。

彼の母親は早くに亡くなり、父親は継母朱氏と再婚し、この3人と暮らしていました。この母は、大変わがままな性格で彼を困らせましたが、彼は意に介さず良く孝を尽くしていました。

ある厳寒の冬の日、母は、生きの良い鯉を食べたいと言い、彼に釣ってくるように言いつけました。寒い冬のこと、池も川も厚い氷が一面に張っています。彼は自分の体温で氷を溶かし、穴をあけて鯉を捕ろうと決心しました。衣服を脱ぎ、氷の上に腹這いになって、一生懸命天に祈りました。すると、氷が溶けてその穴から2匹の鯉が躍り出たのです。喜んだ彼は天に感謝し、鯉を家に持ち帰って母に食べさせたと言うことです。

舞殿の彫刻「西面 左の彫刻」

上段「孝、天を感動さす」
下段「姑(しゅうとめ)に乳をあたえる」

「孝、天を感動さす」

古代の中国、虞という国の皇帝となる挑舜(とうしゅん)という人物のお話です。舜の生母は彼が幼いころに病死し、父は盲目の人だったといいます。父の後妻は実子を可愛がり、後妻の子も傲慢で、義兄である舜に対し尊大でした。しかし挑舜は不満も言わずに、父母への孝行をつくし、義理の兄弟にも優しく接しました。そんな舜の姿に、動物たちも彼の仕事を助けてくれたということで、この図は、遠い山の畑で一人耕作する舜を助ける象の姿を彫り込んだものです。

この後、舜は学問に励み、国中の人々に認められるようになりました。時の皇帝、堯(ぎょう)は舜を信頼し、やがて舜に皇帝の位を譲ったといいます。古代中国の禅譲伝説(ぜんじょうでんせつ)として有名な説話です。

~この図は、象が挑舜(とうしゅん)という人物の耕作を助けている場面です~

「姑に乳を与える」

今から1300年ほど前になるでしょうか。中国の唐の皇帝、太宗の后(きさき)、唐夫人は帝の治世を助けた賢婦といいます。ある時、太宗の母、長孫太夫人が病に伏したので、自分の乳をのませ看病しました。そのおかげで長孫大夫人はご飯を食べなくとも数年にして健康を取り戻すことができたといいます。のち、長孫太夫人はその死に臨んで、唐夫人に厚く礼を述べ、一門・親戚を枕元に集め、「私は嫁のおかげで今日まで生きることが出来ました。子々孫々にいたるまで、唐夫人のような嫁がきてくれると良いものだ」と語ったということです。

~この図は唐夫人が皇帝太宗の母、長孫太夫人に自分の乳を飲ませている場面です~

舞殿の彫刻「北面 右の彫刻」

上段「蚊に自分の血を吸わせる」
下段「虎害から親を救う」

「蚊に自分の血を吸わせる」

中国は晋の時代、呉猛(ごもう)という人がいました。彼が八歳の頃のお話です。呉猛の家はたいそう貧しかったので、部屋に掛ける蚊帳もありませんでした。そのため夏になると蚊に刺さされて、家族はよく眠られなかったということです。そこで猛は、自分が蚊に血を吸わせれば、両親のもとには蚊が寄らないだろうと考え、毎晩はだかで、両親の傍らに寝ることにしたということです。

~この図は、裸で寝ている呉猛が、親に寄る蚊を追っている場面です~

「虎害から親を救う」

やはり、中国は晋の時代、楊香(ようこう)という人物の話です。香が14歳のとき、父親とともに田圃を耕していると、山から一頭の虎が出てきました。虎が父親に襲いかかろうとしたとき、香は、両手を広げて虎の前に立ちふさがり、どうぞ、私を食べて父に害を及ぼさないで下さいと、天に向かって祈りました、すると、その真心が通じたのか、虎はおとなしく立ち去ったということです。

~この図は、楊香が虎の前にたちふさがる場面です~

舞殿の彫刻「北面 中央の彫刻」

上段「雷鳴を聞いて墓を守る」
下段「身代によって父を葬る」

「雷鳴を聞いて墓を守る」

古代中国、三国時代の魏の国に王襃(おうほう)とういう人物がいました。彼の父は王儀といい魏の将軍でしたが、敗戦の責任をとらされ処刑された人物です。王襃はそれを悲しんで職を辞し、朝夕父の墓に参り、その悲しみの涙のため墓側の木が枯れたと伝えられます。さて、王褒の母は気の弱い人物で、殊に雷鳴をたいそう怖れたといいます。日頃雷を聞くと、王襃は急いで帰宅し母を安心させていました。母の死後、ある日大変な雷鳴に見舞われた時、王襃は大風雨の中を母親のお墓にかけつけ、生前と同様に、私がここにおりますと言って、亡き母の恐怖を取り去ることを願ったということです。

~この図は、王襃が雷鳴嫌いの母の墓の前に赴いた場面です~

「身代によって父を葬る」

やはり、中国は古代、漢の時代、董永(とうえい)という人物がいました。董永は幼いころに母を亡くし、父親と二人暮らしでしたが、家が貧しく田畑がありませんので、他人のお使いや耕作の手伝いをして生計を立てていました。そのため父が亡くなった時には、弔うための蓄えもなく、自分の身を売ってようやく葬式を済ますことができました。この様子をみていた天女が、その孝行に感心し、地上に降りて董永と結婚することになります。彼女は、ひと月の間に絹織物を六百反も織り上げ、すっかり夫の身代金を償ったのです。この彫刻は、董永を助けた天女が、天に帰ろうとしている場面です。

~董永のもとを去ろうとする天女の姿が彫られています~

舞殿の彫刻「北面 左の彫刻」

今回は、舞殿北面(御殿正面側)向かって左にある彫刻にまつわるお話です。上段「米を負いて親を養う」、下段「植木を三分する」

「米を負いて親を養う」

古代の中国、周の時代に、子路(仲田ともいう)という人がいました。彼の家は極めて貧しく、雇い仕事を探しては僅かな収入を得て、両親を養っていました。そんな生活を続けながらも、彼は学問が好きで、人の教えも良く聞きました。やがて、その優れた人品と学識は評判となり、楚国の王に見いだされて、官吏となることができました。こうして何不自由ない生活をすることができるようになったのですが、粗末な野菜の弁当をもって、親を養うために働き、遠い道を、米を背負って親孝行していた毎日を、終生忘れなかったということです。

~この図は、子路が米を負い運んでいる場面です~

「植木を三分する」

やはり、中国は古代、田真・田広・田慶という3人の兄弟の話です。この兄弟は豊かな家庭に育ちましたが、それぞれ譲り合いの心がありませんでした。親の死後、3人それぞれが遺産の取り分を主張し、全てを三等分にすることで、話をまとめました。最後に、植木1本がのこるだけとなったところで、3人はこの植木の所有までも主張しあい、夜を徹して論じあいました。結局、この植木も三等分しようということとなり、翌朝、植木の前にでてみると、樹勢はすっかり衰えてしまっていたということです。兄弟は顔を見合わせ、「さては、心のないはずの植木でさえも、切り裂かれることを悲しむのか」と初めて、自分たちの争いの浅ましさを恥じ、改心したということです。

~3人の兄弟が、1本の植木の所有をめぐり論じ有っている場面です~

三四呂人形  はなこさん・春日だんらん

左 三四呂人形:はなこさん/右 三四呂人形:春日団らん

指  定 三島市指定有形文化財
指定日 昭和58年10月7日
時  代 昭和初期

解説

三四呂人形は、三島市出身の人形作家、野口三四呂(本名三四郎、明治34年(1901)~昭和12年(1937)が制作した独特の風合いをもつ張り子人形。その素朴な様子は牧歌的とも評されています。三嶋大社には「はなこさん」と「春日団らん」の2作品が所蔵されています。三四呂が若くして没していますので、遺作は多くなく貴重な作品です。

※野口三四呂(三四郎):野口は、鹿児島寿蔵・堀柳女らとともに「甲戌会」を結成し、新しい人形芸術の流れを創った人物です。その作品は海外でも高い評価を得、ルーブル美術館・ベルギー国立博物館にも所蔵されています。昭和11年、第一回人形芸術院展では「水辺興談」が最高の栄誉である「人形芸術院賞」を受賞し名実共に第一人者となりますが、翌年37歳の若さで病没しました。
野口の作家活動に影響を与えたのは、旧制韮山中学時代の美術教師彦坂繁三郎だといわれています。彦坂のもとからは、近藤浩一郎・栗原忠二・柏木俊一・澤田政廣・和田金剛ら、日本を代表する芸術家たちが育ち、一時代を画しました。

三四呂人形:春日団らん

未指定の文化財から

後水尾院和歌懐紙(ごみずのおいん わかかいし)

後水尾院和歌懐紙

時  代 寛永14年(1637) 江戸時代前期
種  類 紙本墨書 掛幅装

釈文

詠籬瞿麥(まがきの なでしこをみて よむ)
和歌
朝夕の まかきのつゆや かそいろと
おふしたて剣 花の撫しこ

解説

後水尾院(ごみずのおいん/後水尾天皇)自ら筆を染めた御宸筆(ごしんぴつ)で、壮年期の円熟した筆遣いをよく伝えています。寛永14年(1637)7月24日の御詠で、御歌集「後水尾院御集」夏部に収められています。露を葉にまとう、籬(まがき)に咲く撫子(なでしこ)の姿を詠んでいます。

【後水尾天皇と寛永文化】
後水尾天皇は(慶長元年(1596)~延宝8年(1680)、江戸時代前期、慶長16年(1611)~寛永6年(1629)に在位。第2代将軍徳川秀忠の娘和子を中宮として迎えています。御息女興子内親王(明正天皇)に譲位したのち、長きにわたり上皇として、この時期の宮廷文化サロンの中心であり続けました。

大太刀:高力長吉作

銘:奉納三嶋大明神御寶前/三州高力住長吉作
刀身銘:高力左近大夫平朝臣高長敬白/寛文元年丑年十一月吉日

時  代 寛文元年(1661) 江戸時代前期
種  類 刀剣/太刀(たち)
全長161.5cm 刃長114.3cm 茎長47.5cm 反り5.0cm

解説

島原藩主高力高長(三河出身)の奉納となる、長大で重量のある大太刀。高力氏の郷里、三河国高力郷(愛知県幸田町)の刀工、高力長吉が作刀したものです。

高長はこうした大太刀を全国の一の宮・有力神社、ゆかりの深い神社や寺院に、次々に奉納しています。現在は23口の存在が確認されています。数多く打つ必要から、奉納が重なる年には、高力長吉以外の者が鍛えた太刀も数口含まれます。

研ぎをかけず初刃のままですが、高長の奉納大太刀は全てこの形式で奉納されました。当時、江戸幕府が大太刀所持を禁じていたことと関わりがあると考えられています。

※参考文献
大明 敦「高力高長による太刀の奉納をめぐって」(『埼玉県立博物館紀要』23 1998年)
池田伸子「高力高長の太刀奉納について」(『埼玉県立博物館紀要』24 1999年)

大太刀:高力長吉作

※このほか種々の奉納品を収蔵する。

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